2012年5月17日木曜日


 本書は、前作「気候文明史」の続編で、内容も具体的で気象が歴史に与えた事例を文献から検証しています。 広大な太平洋東部の熱帯地域で生じる海面水温のわずかな変動。これが通常より数℃高ければ「エルニーニョ現象」と呼ばれています。エルニーニョの発生に伴って赤道海流に変化が生じ、インド洋では気圧が上昇し、降水量が減って干ばつが引き起こされる。このように、局所的な変動が地球規模で気象に影響を与え、人間の行動を狂わせていきます。
 本書は、エルニーニョによって異常気象が、どのように世界の歴史に関与してきたか、その発生メカニズムと、多くのエピソードを交えて紹介しています。
 大きいものでは、16世紀のスペインによるインカ帝国征服、19世紀 にアジアを襲った大飢饉と植民地支配、第二次大戦での独ソのスターリングラード攻防戦、1972年の異常気象がもたらした世界的な食料危機などで、異常気象がいかに世界の歴史を変えたかを描いている異色の歴史・科学読み物です。

 目次を見てみましょう。

第1章 征服者を導いた「神の子」
第2章 イースター島の先住民はどこから来たか
第3章 アジアの大飢饉と新しい植民地支配
第4章 ナチス・ドイツを翻弄したテレコネクション
第5章 世界食糧危機:1972〜1973年
エピローグ エルニーニョは今後も人類に問いかけ続ける

 面白いところをいくつかピックアップしてみましょう。

 第1章では、スペイン人によって建設された植民地パナマからピサロは南米征服を試みますが、強いペルー海 流(フンボルト海流)に阻まれ南下できずに二度も失敗します。一度目の遠征には70日を要し物資が尽きて撤退。二度目の遠征では2年もかかってしまいやはり撤退。しかし、三度目の遠征ではわずか13日でペルーに辿り着きます。三度目の遠征はエルニーニョ現象の年で、それまで悩まされていた北上するペルー海流が穏やかだったこと、いざ上陸してみるとインカ帝国は内乱の最中であったこと、など絶好のタイミングでインカ帝国を手に入れます。


最も危険な自然災害は何ですか?

 第2章では、あのモアイ像で知られているイースター島先住民にまつわる話です。ヘイエルダールの夢と冒険の話が出てきます。彼が、先住民に「どこから来たのか」と聞くと南米大陸の方向を指したことから、ペルー海流に乗れば、南米大陸からイースター島まで7000kmあまりを漂流しながらたどり着けるのではないかと考えます。そこで、先住民が使ったのと同じバルサ材の筏(インカ帝国の太陽神の名を取ってコン・ティキ号と命名)で太平洋に乗り出します。ヘイエルダールの漂流実験は、冒険としての偉業は讃えられたものの、学術的に認められるには至りませんでした。というのも、DNA分析でイースター島民の先祖は東南アジアの人々とのつながりが� ��きいということが明らかになったからです。
 今日のイースター島の住民は2000人ほどと言われていますが、島民の悲惨な運命の話は目を覆うものがあります。
 コン・ティキ号は、若い頃仕事でノルウェーのDNV(Det Norske Veritas)に出張した折、オスロ市内のコン・ティキ博物館で見たことがあります。展示の中に、コン・ティキ号の漂流経路(101日、6900km)も記載されており、「バルサ材で作られたこんな小さな船で、しかも太平洋で漂流実験をしたのか」とその勇敢さに驚いたものです。


コウモリの生活のどのようなタイプのオレゴン州

 第3章では、インドの飢饉と中国での飢饉の様子が詳しく記されています。
 エルニーニョによる異常気象は、太平洋東部に限った話ではありません。太平洋とインド洋の間には気圧のシーソーのような動きが見られ、太平洋東部にエルニーニョ現象が起きると、インド洋では気圧が上がり、降水量が一気に減少し、この影響で干ばつが発生し、この影響でインドでは飢饉による餓死者が後を絶たないという悲しい歴史を持ちます。
 インドの飢饉の死亡者は1000万人ともいわれています。救済策が英国人には浪費と映り、怠惰なインド人救済のために英国政府が大きな財政支出を伴う支援活動を実施する義務はないとし、飢饉に対して は徹底した自由放任主義をとり、穀物価格を市場の動向に任せます。さらに、飢饉は人口を抑制するためには有効な手段であり、飢饉への対策は益よりも害が多いとさえ考えられていたといいます。欧米人のこのような考え方にはびっくりしますが、底辺には人種差別があるわけですが、これについては、項を改めて述べてみたいと思います。
 さて、中国の場合は飢饉の発生と同時に北京政府による救済策がとられますが、ここでは、輸送システムがボトルネックになりました。当時中国には鉄道網はなく、物資輸送のための運河も干ばつと同時に水位が下がり、小型船しか使用できない状態でした。
 国民の不満は外国人に向けられ、その矛先はキリスト教でした。飢饉などの天災により民衆は宣教師の慈善活動に救いを見出し 、当時中国の内部対立の結果社会的弱者となった人々も庇護を求めて入信したため、クリスチャンは勢力を拡大します。排外運動の中心となったのがいわゆる義和団の乱だったわけです。
 ウェールズの宣教師T・リチャードは最も被害の大きかった山西省を巡回した際、食人が平然と行われている光景をみて強い衝撃を受けたと報告しています。


ここで、アメリカのワニが住んでいない

 第4章は、ナチス・ドイツを翻弄したテレコネクションの話が出てきます。テレコネクションとは、離れた地域で相互に気圧の関係が変わり、ひいては気象現象が相関関係を持って大きく変わる現象です。
 1941年モスクワに侵攻していたドイツ軍に対して、エルニーニョに起因する厳しい冬将軍が襲いかかります。モスクワの天候を楽観視していたヒトラーは「5万人の兵士を含む25万人で、4億人のインド人を支配しているイギリス人から学ぼうではないか」と豪語します。しかし、作戦を立案した参謀の一人が冬季の戦闘に対して問題点を指摘しますが、ヒトラーはこの意見を封じ、作戦決行を決断します。
 この戦いで、両軍合わせてて 700万人の兵力が投入されたのに対し、両軍での戦死者は250万人にも上ったといわれています。さらに、スターリングラード攻防戦でも、戦略的に最重要な地点とは思われなかったにも関らず、「ソ連の指導者の名前を付けた都市」という理由で、ここを落とそうとヒトラーは考え、実行します。
 しかし、異常気象はナチス・ドイツの戦略面での根本的な欠陥を明らかにし、最後に敗北という烙印を押します。この戦いも、エルニーニョとラニーニャの一連の発生による天候の変化でした。


 第5章では、1972年〜1973年にかけて世界を襲った食糧危機の話が登場します。第2次世界大戦の終了と共に、フォン・ノイマンを中心とするコンピュータを用いた気象予報のモデルが開発され、今日のスーパーコンピュータによる気象予報の基礎が築かれた時期でもあります。食糧危機の話は本書に譲るとして、ここでは1960年代に隆盛を極めたペルー沿岸のアンチョビ漁を見ておきましょう。
 アンチョビ(タクチイワシ)はペルーの沿岸にすむ人々の食糧としてではなく、北米の畜産業で使用する魚粉としての輸出商品でした。
 動物学者のR・マーフィーは、アンチョビ漁の拡大は海鳥の個体数を減少させることを懸念します。また、「海鳥たちは自分が食べられる量しかアンチ� �ビを獲らないのに対し、産業としての漁業となると漁獲量に際限がなくなる」と乱獲を心配します。心配された通り1960〜1965年にかけてペルーの漁獲量は4倍以上になります。ところが、1964年に発生したエルニーニョで、沿岸湧昇によるプランクトンが減ると同時に、アンチョビの産卵数が減り、ペルーの漁獲高は減少します。
 ペルーにとって、アンチョビは外貨獲得の重要な輸出商品となっていたため、最大持続可能漁獲量という発想が出てきます。生態学者はこれを950万トンとし、海鳥が200万トン食べるとして、人間の取り分は750万トンとします。しかし、事態は海鳥と人間との資源の奪い合いとなり、過激な科学者の中には、海鳥を大量に抹殺すれば、この200万トンも人間の取り分となると意見する者も出る程過熱したと言わ� ��ています。その後、1990年代にアンチョビが戻るまで、ペルーの漁業の低迷は20年間を要したと言われています。
 


 エピローグでは、エルニーニョの発生予測については、長い間統計的手法が用いられていたが、1980年以降になると、コンピュータを利用した力学的手法が主流になったとあります。力学的手法というのは、自然現象の物理過程を理論的に解析し、モデル化(多分、有限要素法)したものを実際の観測によって検証するという手法です。
 1986年には、この予測モデルも、海洋について@「海面」、A「海洋上層」、B「海面下層」の3層と単純化し、これにC「大気モデル」を組み込むというモデルが登場します。この頃から、このような単純なモデルでもエルニーニョを的中させてこの手法は脚光を浴びます。1997年には、多くのモデルで発生そのものの予測に成功します。
 現在では、� �平洋東部の赤道域での海面水温の初期の動きを監視し、その観測データを力学モデルに入力(たぶん、境界条件として)することにより、半年先のエルニーニョの発生まで、予測が実現しています。
 日本でも、気象庁が1999年8月からエルニーニョ発生の予測モデルを実用化し、現在では3ヵ月から6ヵ月先の太平洋東部の海面水温の動きの予測が可能になっています。
 ただ、理論面の大きな課題は、@「観測データの不確実性」とA「モデルに用いる計算式の不完全性」であり、同時に気象や海洋のような複雑系(カオス)を伴う自然現象をすべて正確に物理過程で説明するのは、将来においても不可能であろうと述べています。
 
 インド領の英国の統治者も、ナチス・ドイツも、ペルー政府も、無知であったわけではあり� ��せん。当時であっても状況をつぶさに観測すれば、迫りくる危機を認識できたはずです。にも拘らず、彼らは人命よりも経済を優先させたわけです。
 著者は、19世紀のインドでの鉄道網の整備が食料の偏在を生んだように、情報インフラの発達が世界各国に異なった災害をもたらのではないかと危惧しています。


 エルニーニョというのは、ペルーのコスタ地方でのローカルな現象です。通常の年であれば、ペルー沿岸の11月の月平均の海面水温は17〜18℃であるのに対して、エルニーニョの発生時には20℃近くになるという現象です。 「わずか2〜3℃の海面水温の上昇が南米大陸西側(太平洋東部)の局地気象を激変させ、ひいては全世界の気象に大きな影響を及ぼす」という一般にはあまり知られていない地球規模のテレコネクションの話は興味深いものがあります。
 2010年の夏は例年に比べて非常に暑く、モニ1000の蝶の調査でも、8月から9月にかけて突然個体数が大きく変化するという異変が起きました。本書の138ページに、2009〜2010年の冬に北半球中高緯度で観測された主な異常低温と異常高� ��の図がありますが、この程度のことが判るわけですから、天気予報も、2012年2月の日本海側の大雪に対して、ただ「寒気団が南下してきたから」というのではなくて、「何故南下してきたのか」というところまで突っ込んで予報を出して欲しいものです。そうすれば辛い冬を過ごしている雪国に住む人達も「なるほど」と納得できるはずです。
 もし、世界的な気候のテレコネクションによって、寒気団が降りてきたというのであれば、そう報道すれば良いのです。人は納得して諦めることが出来れば、そんなに辛い思いはしないものです。

 私たちが今まで繋がっているとは考えてもみなかった「気象と歴史の関係」が鮮やかに描き出されています。気象に興味を持っている人にも、歴史に興味を持っている人にも新しい切り口 の本です。お薦めの良書です。



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