エレファント・ブルー
シャワーの音で目が覚めた。ゴソゴソと起きだしてシャワールームの方へ行くと、入り口付近には大きな掃除用のワゴンがあり、白髪で眼鏡をかけたハウスキーピングの女性がバス・ルームの掃除を始めていた。人が床で寝ている事に気づかなかったようだ。入って行くと彼女はとても驚き、起こしてしまって申し訳無いと詫びたが、逆に驚かしてしまった事やドアノブに札をかけておかなかった自分が悪いと詫び、続けるように頼んだ。
「わかりました」
と答えバス・ルームの掃除を続けた。外は良く晴れていて、カーテンを開けたまま寝てしまったので、大きな窓から太陽の光が差し込み、目が痛い。力強い太陽の光線は、オーチャード・ロードの汗が滴り落ちる程蒸し暑さ思い出させた。その日もまた暑い1日になりそうだった。
ベッドの横にあるデジタル時計に目をやると、午後1時を回っていた。残る時間は、41時間を切っていたが、既に謎を解いてしまった後なので焦る理由も無かった。 リモコンでテレビのスイッチを入れ、着替えを出してハウスキーピングがバス・ルームの掃除を終えるのをゆったりと待った。
答えを求めて当ても無く街を彷徨なくて良いのだと思うと気が楽だった。明後日の午前6時にティオン・バル・バード・エリアへ行けばケィに会えるかもしれない。心配な事があるとすれば、始発電車があるかという些細な心配だけだ。万が一電車が無くてもタクシーで行けば良いだけの話だった。問題が解け気分はすごく晴れやかだ。これでケィを連れ戻す事ができれば最高の気分だろう。実際は連れ戻せる確証は何もなかったが、今はネガティブな考えを持たないように努めた。
椅子に座り、昼のニュースをぼんやりと見ているとバス・ルームから女性が出てきて、バス・ルームの掃除が終わった事を告げた。そして一旦廊下へ出て、今度は大きな掃除機を持って戻ってきたので、入れ替わりに着替えを持ってバス・ルームに入り、シャワーを浴びた。それから洗面台へ行きシェーバーを使って伸びた無精髭を丁寧に剃り落とし髪にブラシを入れた。洗濯を終えた下着と洋服を身に着けると、心の奥まで一新されたような清々しい気持ちになった。ハウスキーピングにチップを渡し、礼を言って部屋を出てからその足で4階にあるビジネス・センターへ行った。
レセプションに座っている女性に部屋の鍵を見せて利用カードを受け取り、部屋番号とサインをした。それから利用できる端末のブースの番号を教わり端末のロックを解除するためのUSBキィを借りた。端末のブースは小さな個室になっておりLANに繋がったPCがあった。PCからはLANを通じレセプションにあるプリンターで印刷もでき、直接インターネットへアクセスする事も可能だ。USBキィを挿入し、PCを起動してブラウザを立ち上げた。それから昨日、電子メールで依頼した事への返信を確認するためにメールサーバへログインした。
思った通り、メール・ボックスには幾つかの返信と新しいメールが届いていた。プロジェクトへの指示は全てきちんと受領されているようだ。メールの宛先であるメンバーからは、特に質問や疑問そして問題の指摘はなく、全て指示したタスクへの返信は了承されていて、各自の作業は順調に進んでいるように見えた。結局、自分など居なくてもシステムは正しく動き、そして会社もきちんと正常に動いていくのだ。安心した反面、自分の存在意義を考えると少し複雑で寂しい気持ちにならなくもなかった。そして、プロジェクトメンバーへお詫びとお礼の言葉を書いて返信した。メール・ボックスには、まだ50通以上の未開封メールが残っていた、その中にはユカリからの電子メールもあった。
「件名 Re:長期休暇申請について
本文 こんにちは元気、今シンガポールにいるの、いきなりどうしたのよ?今朝メールを読んだので、早速、長期休暇の申請代行をしようとしたの、そうしたらどうも変なの。部長に提出したら、貴方はどうも長期出張扱いになっていて長期休暇申請は取り下げられちゃったの、これってどういうことかしら…?まぁ、長期出張なら給料付きで休めるからラッキーだけど。色々と大変そうだけど無理しないでね。ケィちゃん早く見つけられるといいね。会社の事は心配しないで、何かあったらまたメールするから。あっ、それとシンガポールは、フォラガモのバッグが安いのよ、お願いね。じゃまたメールするわね。 ユカリ」
ユカリらしいメールだった。ユカリにも色々頼んだので礼を述べて、手が空いたら会社やプロジェクトの状況を時々メールして欲しいと書いて返信した。一通りメールに目を通すとPCの電源を落とし、借りたUSBキィをレセプションの女性に返してビジネス・センターを後にした。事務的な作業を終わらせて一息つくと急にお腹が空いてきた。そういえば朝食も昼食もまだ食べていなかった。その建物の同じ4階のフロアには、昨日夕食を摂ったホーカーズがあったのでその足で向かった。
ホーカーズは丁度ランチタイムが終わった所だった。店内で食事している客はまばらだった。あのマレーシア料理店にはきのうのお婆がいて暇そうにコップを洗っていた。昨日来た事をまだ覚えているらしく、人の顔を見るとニコニコ笑ったので仕方なく、またお婆の店でサテーを5本とナシレマックを注文した。ナシレマックはココナッツがたくさん入っていて甘く感じたが空腹だったので、無理やり食べることができたが、どうしてもココナッツの匂いが鼻について、最後は昨日と同じようにダイエット・コークで胃の中へ無理やり押し込んだ。サテーを全部食べきると、ホーカーズを出て、一度部屋へ戻った。
部屋はもう綺麗に片付いていて、床に散らかしていた資料も綺麗にテーブルの上に並べられていた。椅子に腰掛けて、これから何をすれば良いのか考えたが、特にしなければいけない事を思い付かなかった。明後日には全て終わり、そしてケィと楽しく家に帰る事ができるのだ。窓の外を見ると昨日の豪雨とは打って変わり、太陽の光がさんさんと降り注いでいた。キィを開けてベランダ出ると熱い太陽がジリジリと肌を焼いた。ホテルの周囲には高層のオフィスビルがあり、その窓の中には月曜日のオフィスの風景が見えた。本来何も無ければ、自分もあの人達のように働いている筈だった。ケィの事は明後日にはきっと解決するのだと自分に言い聞かせ、仕事の事は全て忘れて少しばかりのバカンスを楽しもうという� ��になってきた。
正直なところ、寒い吹雪の冬山よりは、ここに居る方が何倍も良かった。吹雪の中、寒い思いをして雪下ろしをしに駐車場までいく必要もなかったし、転んで雪だるまになる必然性もなかった。ベランダから見下ろすと眼鏡型のプールで宿泊客が気持ちよさそうに泳いでいる姿が見えた。熱帯に来たのだからプールでゆっくり泳いでいけない理由はない。きっと、ケィもそれぐらいなら許してくれるだろう。そう思うと足はもうプールへ向いていた。3階にあるショッピング・センターでブルーの水着とゴーグルを買って5階のプール・エリアへ行った。プール・エリアに入るためにはルーム・キィが必要だった。エレベーター・ホールからブール・サイドに出るためには、ルーム・キィを使って扉を開けて出るようになっていて、ホテルのゲストでないとこのプールにはアクセスできない仕組みになっていた。
プール・エリア内にはバスタオルの貸し出し所と更衣室があり、バスタオルを数枚借り、更衣室に入って買ってきたばかりの水着に着替えた。ロッカーに荷物を入れて鍵を手に、プール・サイドに置かれたビーチ・チェアの一つにバスタオルを敷いた。シャワーで汗を流し、ゴーグルをかけ透明な水の中へ潜った。水は生ぬるかったが、それでも久々に入った水が優しく体を包み込んでくれる感覚は気持ちよかった。眼鏡の形をしたプールの1つ目のサークルは子供用の深さだった。そして、2つ目が大人用となっていて2メートルの水深があった。プールの直径はそれぞれ20メートル程度で径を泳げば、競泳用のプールのように長い距離を泳ぐ事ができた。水面に出て人に当たらないように注意しながら、プールの径をクロールでゆっくりと泳いだ。円の中心は縁よりさらに深くなっていて3Mはあった。潜ってプールの底から見上げてみると、73階建てのホテルが青い空に向かって高く伸びている風景が水の壁を通して見えた、水の中から見る高層ビルや白い雲は、水面に波が立つのと同時にゆらゆらと揺れて見えた。
水の中で息の続く限りそうやって空を見上げていると、自分が水の底にいるのではなく空を飛んでいるような感じがした。まるで無重力の世界を自由に飛び回っているような気持ちになった。そうやって、潜水をしたり、プールを何回も行ったり来たりして、午後の一時をプールでのんびりと過ごした。疲れるとプールを出てビーチ・チェアへ行き仰向けになって横になった。午後3時なるというのに、太陽はまだまだ高い位置にあり赤道直下の強烈な日差しを放っていた。太陽があまりに眩しかったので手で目を翳していると、都合よく目の前に影ができた。目をゆっくり開きその影の正体を見ると、それはアロハシャツを着でサングラスをかけたウェイターだった。プール・エリアにはバーがあり、注文するとビール、ワインそしてカクテルなど好きな飲み物を飲むことができた。喉が渇いていたので、ウェイターが来たのは丁度いいタイミングだ。ところが、そのウェイターは、こちらが注文する前に、持っているトレイの上から冷えたビールの入ったグラスを、ビーチ・チェアの脇にある小さなサイド・テーブルの上に移し、
「あちらのご婦人からですよ」
とその方向を指した。びっくりして彼の指した方向をみると、プールを隔てて反対側に、小さな黒いサングラスをかけ、気持ちばかりの布を使ったビキニを着けたグラマラスな女性が、ビーチ・チェアに半身を起こしてこちらの方を見ていた。彼女は、ビールが届けられたのを確認すると、起こしていた半身をゆっくりと倒して背もたれに凭れ掛かり、テーブルに置いてあった雑誌に目を落とした。ビールをもらった事に対してどうすれば良いのか、直ぐに思いつかなかった。喉が渇いていたし、せっかくプレゼントしてもらった物なのでグラスをとり一口だけ喉の奥へ流しいれた。
知らない土地で知らない女性からいきなりビールをプレゼントされたら、その後どういう態度をとれば良いのだろう。日本ではこんな事は思いもよらない。きっと普通の生活を送っていたら、日常でこんな経験をする事は一生ないだろう。ガイド・ブックや旅のマニュアルにだって、対処方法なんて物は書いてある筈がない。彼女はさっきからこちらを、少しも見ることもなく雑誌に目を落としている、という事はウェイターがビールを届ける相手を間違えたのではないのか。でも、さっきビールを手にした時に、サングラスの奥にある彼女の目とサングラス越に目が合ったような気がしたのは間違いない。勘違いであれ、それが誰であれビールをご馳走になったのだ。礼儀としてお礼くらい述べておくべきだろう。ビー� ��を持っていない手でサイド・テーブルをパラソルの影が落ちている場所に移動して、そのテーブルの上にグラスを置いた。
プール・サイドまで行き、水の中へ入ると、プールの反対側まで泳いだ。彼女のいる側に着くと、縁に手をかけ、曲がった腕をグッと伸ばして体を持ち上げてプールから出た。濡れた髪の毛を、手で後ろへ撫で付けながらその女性にゆっくりと近づいた。女性は近付いて来る人影に気づいていないのか、それとも気づかない振りを装っているのか、とにかく雑誌に目を落としたまま身動きしない。 女性に近づく毎に心臓が口から出てくるかと思う程、鼓動が高鳴り、緊張で動きが硬くなった。相手にそれを悟られないように平静を装ったが、それは無駄な努力だった。極度の緊張のため、心臓の鼓動が聞こえてしまうのではないかと思うほど鼓動が大きくなり、口が渇き、体が強張るのを自分でも感じた。
自分でもビール一杯に何故、緊張しているのかわからなかった何と声を掛ければ良いか判らなかったので、とりあえず隣の空いているビーチ・チェアに腰を下ろした。それでも彼女は雑誌からは目を動かさず身動きしない。何の会話も無いまま時間が過ぎたが、少し経つと彼女が先に口を開いた。それは、先手を取られてしまった事を意味していた。
「早くビールを飲まないとぬるくなっちゃうわよ、それとも貴方アイリッシュみたいに生温いビールが好きなの?」
彼女は高圧的な口調でそう言った。まるで泳いで帰ってビールを飲んで来いと言わんばかりだ。見ず知らずの女性に何でこんな風に言われなければいけないのか、少し驚いた。完全に主導権は彼女に握られていた。
「いえ、ただ、お礼がしたかっ……」
と言った所で言葉が出なくなった。自分が何か大変な間違いを犯しているような気持ちになり、その後の台詞が続かなかった。その変な気持ちがどこから来て、どうして起こっているのか直ぐにわからなかったが、少し時が経つと自分の犯したミスが何だったのか次第にわかってきた。受話器を通した声と、肉声とを最初から聞き分けるのは難しい。よく考えて状況を判断すれば、簡単に分かる筈だった。そして、その事が最初から分かっていれば、そんな所へ行くべきで無い事は明白だ。気付いた時は既に遅すぎた。それに、今更気付いた所で、自分がどうすべきか分からない。きっとアミはそんな鈍感さに苛立ち、黙っているのだろう。おずおずと声を掛けてみる。
「……アミ?」
電話の声やその内容と、今目の前に居るアミの姿は、あまりにもイメージがかけ離れていた。それが直ぐにアミと気づかなかった一番の理由だった。電話の向うに居たアミは、どちらかと言うと妖艶な成熟した女性をイメージさせたが、今ここに居るアミは、電話の中の女性からは全く想像ができない程、若くて健康的な女性に見えた。女性の年齢を外見から判断するのは難しかったが、多分、アミはケィより2〜3歳年上といった所だろう。茶色の長くストレートな髪の毛と、よく日に焼けた小麦色の肌は、電話の声とは反対に健康の象徴の様にも見えた。そして今度は雑誌から目を離し、顔をあげて言った。
「貴方がプールで泳いでいる姿が見えたので降りてきたのよ」
「でも、アミはメッセージを伝えるだけで、会わないって言ったじゃないか。」
「そうよ、クライアントの依頼ではそうなっているの、私だって契約を破りたくなかったわ。このお仕事は私にとってとても大切なのよ、わかるでしょ」
「じゃ、どうしてここに居て、話しているんだ……」
と言った後で2つ目の大きな間違いをした事に気づいて会話を止めた。これ以上間抜けな質問をしたくはなかった。アミはそれを察したのか気まずさを断ち切るように、サイド・テーブルに乗っているシンガポール・スリングのグラスを手に取ると、それを一口飲んだ。その姿を見たらシンガポール・スリングが、暗い夜のバーのカウンターではなく、明るい太陽の輝くプール・サイドにとても似合っていると感じた。
「泳ぐのが終わったら少しつきあってね、このプールの下にフィットネス・センターがあるのよ。そこ4時に動ける格好をして来てね。約束よ」
アミは、フィットネス・センターのある階段を指しながらそう続けた。そこには白い大理石の石段があり、プール・サイドから4階へ降りていくように作られていた。アミはそう言うとサッとバスローブをはおり、読んでいた雑誌を手にとってエレベーター・ホールへ抜ける扉へスタスタと歩いていった。
アミが行ってしまうと空いたビーチ・チェアを前に、一人ポツンと取り残された。さっきビールを届けてくれたウェイターと目が合うと大げさに両手を広げてみせたのでなんとなく恥ずかしくなり、再びプールを渡って、自分のビーチ・チェアまで戻った。サイド・テーブルの上には、アミの言う通りにアイリッシュ・ビールのようにすっかり生温くなったビールがあった。その生暖かいビールを無理やり胃の中に流し込み、敷いてあったバスタオルで体を拭くと、大きな籠の中へ放り込んだ。それからTシャツを上に着て半ズボンとゴーグルを手にエレベーター・ホールへ続く扉へトボトボと歩いた。第一ラウンドは完敗だった、自分の愚かさにぐうの音も出ない。エレベータの中でこれからの展開を想像しようとしたが、それは無駄な事だった。想像の上を行く展開が待っているに違いない。アミの方が一枚も二枚も上を行っているのだ。
部屋に帰ってシャワーを浴び、洗濯したTシャツと半ズボンそしてソックスを履いた。靴は1足しか持っていなかったので日本から履いてきた古いスニーカーを履いた。それでも格好を整え少したるんだ腹を隠しさえすればスポーツマンに見えない事もない。アミのように肌が小麦色になれば堂々と水着になれるかもしれない。
時間はまだ少しあったのでリモコンでテレビを付けNHKのサテライト・ニュースを見た。ニュースは相変わらず政治家の汚職だの、教員のセクハラだの、芸能人の麻薬汚染そして、若年層の暴力事件等のトピックスを繰り返すように放送していた。一昨日も、昨日、そして今日も区別がつかない、どうして同じような事件が毎日繰り返し起こってしまうのかうまく理解できなかった。それは、単に時間の流れの中にある偶然性という理由によって片付いてしまうものなのだろうか?人々はいつもと同じ様に会社へ行き、同じ様に働き、そして組織もいつもと変らず動いている。平和な日本はまるで、コピーされたデジタル・コンテンツのように、昨日も今日も同じ時を刻んでいるように感じた。
テニスナスダック100オープンチケットを検索する場所エレベータを降り、プール・エリアを抜けてフィットネス・センターへ行くと、アミはもうフィットネス・センターのレセプションの前で左手にラケットを持ち、右手をカウンターに掛けて立っていた。クリーム色の地にデフォルメされた象の模様がプリントされた可愛いTシャツに、それと同じクリーム色のショート・パンツを履いていた。クリーム色のウェアとアミの小麦色の肌のコーディネーション、そしてすらっと伸びた長い足は、男女を問わず通り過ぎる人達の目を釘付けにした。アミがそんな格好をしていると昨夜電話で話した相手がますます別人のように思えてきた。実は電話で話したのは別人だったのではないのかと…、実際、本当にそうであったならどんなに気が楽だっただろう。アミは長い髪をリボンで1つに束ね可愛らしい貝殻でできたピアスと、同じ貝殻でできたネックレスをして、そして左手にはラケットを2本持っていた。
「準備はできている?そこのタオルを持って付いてきて」
顔を見るとアミはすぐにそういった。準備も何もこれから何が始まるのかもわからない。その質問には答えないでいると彼女は振り返りもせずに、レセプションの脇にある細い通路に入っていった。慌ててカウンターに置いてあったタオルを手にしてアミの後を追った。フィットネス・センターの中は、真っ白な壁が煌々とライトに照らされていて。まるでSFに出てくる宇宙ステーションの内部を思わせた。その先にはジム・エリアが見えた。そこにはトレッド・ミルやエアロ・バイクがずらりと並べられ、何人かのゲストがその上で汗を流していた。天井からは小さなLCDのテレビが幾つも下がっていて、宇宙ステーションのナビゲーション・ルームを思わせた。アミはそのジム・エリアへ行く手前で、右へ曲がり、細い階段を降りていった。3Mほど降りると、通路は細くなりそこで行き止まりになっていた。通路の右側の壁はガラス張りになっていて、その向こう側に明るい水銀灯に照らされたスカッシュ・コートがあった。
アミは抱えているラケットの1本を差し出しポケットからボールを出すと、直ぐに入り口のノブを回してコートへ入ってノックアップを始めた。そしてアミがボールを打つ度にコーンとうボールの気持ちの良い音がスカッシュ・コートにこだました。持っているタオルをコート・サイドにあるベンチの上に置きコートへ入いると、中の温度が低く過ぎて鳥肌が立った。スカッシュはテニスと同じように学生時代に競技でやっていたラケット・スポーツだったので腕には自信があったが、殆ど練習をしていない事と、社会人になってからの永年に渡る運動不足もあり、体力が最後まで続くかが気がかりだった。
左利きのアミはコートの左側に入って球を打っている。コンパクトなフォームから打ち出されるシャープな球は女性の物とは思えない。きちんとトレーニングを積みスカッシュの経験を長い間積んだ事があるようなラケット・ワークだった。やれやれ、ケィのスキーといい、何で女性ばかりがこんなに進化してしまったのだろう。そんな男女の生活差に不満を抱いていると、いきなりボールがこちらに回ってきた。こちらも壁に向かって2,3回ボールを打って、冷えたボールを暖めるとボールのスピードが急に変った。互いのサイドを入れ替えて、フォアと同じ様にバックハンドの練習を終えると、サーブの順番を決めるためにラケットを回してトスをした。
トスに勝ったアミがサーブ権を持ちゲームが始まった。最初のゲームは互いの技術を見極めるための探りあいから始まった。ウォームアップを兼ねた長いラリーとハンドアウト(*サーブ権の移動)が続いた。ここまではなんとかスカッシュらしいゲームが続いている。結局そのゲームは接戦の末アミが取った。2ゲーム目も接戦となったが最後に意地を見せてなんとかゲームを奪い返す事ができた。3ゲーム目も同じようにぎりぎりで奪う事ができたが、4ゲーム目はアミの体力が圧倒的に勝っていた。スタミナが最後まで続かず、ゲームの途中で逆転されて、そのままゲームを落としてしまった。これでゲームは2-2のタイにもつれ込みファイナル・ゲームで勝負になった。
技術的には、筋力が少ない女性でありながら、これだけ均衡したゲームを続けている事を考えると、アミの方がはるかに勝っていた。それでもゲームが均衡しているのは、筋力にものを言わせたパワープレーにより、スピードを上げて強引に押し切っているためなのだ。実際にゲーム全体をコントロールしているのはアミだった。問題は技術とスタミナだ。Tシャツはもう汗が染みてずぶ濡れだ。一方、アミはまだ幾分体力を残してプレーしている様だった。こちらは元気な振りをする気力も残っていない。アミは着ていたTシャツをコートの外へ脱ぎ捨て上半身がレオタードだけになった。
Tシャツを脱ぐと胸から上と胸からショート・パンツまでの小麦色の素肌が眩しかった。上腕そして肩の辺りから胸にかけては細く肉がそぎ落とされているにも関わらず良くあれだけ早いショットが打てるものだと感心する。レオタードに隠された胸は、その布の中にしっかりと押さえ込まれ窮屈そうにしていた。胸から腰にかけた曲線もキュッと締まり、そして腹部には薄く腹筋の筋が浮き出ていた。そのスタイルは想像した妖艶さとは違い、健康的そのものだがその中にも秘めた妖美さがあった。
その姿に見とれていると、愚かな下半身が反応しそうになったが、かろうじてゲームへの集中力に助けられた。ファイナル・ゲームは4ゲーム目を取ったアミのサーブで始まった。4-4までの各ポイントは、両者とも引かず、壁際によくコントロールされたショットの応酬となり、うんざりするぐらい長いラリーの連続だった。アミも相当負けん気が強いらしく一歩も譲らない。ショットをする度に息が乱れ、肺へ入る酸素が、運動量に比較して全く足りていない。
激しい攻防が続いた。少しでも気を抜くと鋭いボレーショットをニックへ決められた。ポイント毎に10回もハンドアウトが続き、その長いゲームは始まってから既に40分も経過していた。学生時代から参加したゲームを通じてみても、過去にこんなに長い試合を経験した事はなかった。アミはフットワークを巧みに使い極力効率的にコート内を動きまわり、スタミナを温存しているようだった。こちらは逆に、もう息をするだけで精一杯で、作戦を考えたり、形振りなど構ったりしている余裕は無く、「どんなボールでもピックアップしなければいけない」という精神力だけで戦っていた
5-4とアミがゲームをリードした時、頭の中で何かがプッと音をたてて切れたのがわかった。それから後はアミの独断場だった。長いドライブは鋭いボレーでカットされ、時々使うディセプション(*だまし)と絶妙なワーキング・ボースト(*サイドウォールを利用したショット)によって散々走らされる。血液の中に溜まった乳酸のために足が完全に動かなくなってしまった。
結局ファイナル・ゲームもアミが9-5で物にした。最後はアミも相当疲れている様子だったが、体力、集中力、そして技術と、全ての面で勝っている事がゲームの結果となった。試合が終わるとアミは満足そうににっこり笑ってハグを求めてきた。Tシャツは汗でずぶ濡れだったので躊躇したがアミの方から強引に抱きついてきた。体が近づくと、何の匂いだろうか、アミの汗とフェロモンが混ざり合った甘く淫靡な香りに包まれていた。
「ありがとう、楽しかった。いいゲームだったわ、こんなに緊張したゲームをしたのは久しぶりよ。貴方がこんなにプレーできるとは思ってもみなかった、最初はね、あなたが、あまりに鈍感だから少し苛めようと思っていたのよ」
耳元でそういう風に囁いた。でもゲームと抱きつかれた緊張でアミの言葉を飲み込むには少し時間がかかった。そしてそれと同時に愚かな下半身が見事に反応を起こしてしまった。それは完全にアミの思う壺だった。アミはさらに体を摺り寄せて来た。そして体を預けるようにジリジリと迫って来た。持っているラケットが大きな音を立てて床に落ちた。アミはそれでも止めようとしない。
バックウォールまでは僅か10cm程しかなかった。もうそれ以上、後ろに下がる事はできない。背中かが強化ガラスでできたバックウォールに凭れかかるような格好になり、濡れたTシャツがガラスにぴたりと張り付いた。アミはそれでも体を預けてくる事を止めようとしない。アミも持っているラケットを床に落とし、腕を首の方へ回してきた二人の汗が混じりあいフェロモンが複雑に入り混じる。アミは半分自分をからかっているのだ。そんな事は100%明白だ、余りのフェロモンの刺激に試合だけでなく気持ちも負けそうになった。アミの顔は頬の直ぐ横にある。アミが大きく息をすると、その大きな胸が大きく動きその柔らかい感触がTシャツを通してアミの体温と共に感じられた。只でさえ試合で激しく酸素を消費したため、脳が十分な酸素を摂れず、酸素不足を起こし朦朧としている所に加えこの状況だ。すでに自分の本能に抵抗する気力も残ってなかった。
袋小路になった通路はコートを借りている限り誰も入って来る事はない。そのスカッシュ・コートは個室みたいなものだった。実はもうその個室に誘い込まれた時からアミの術中に嵌っていたのだった。スカッシュで疲れ果てた体には、拒絶するエネルギーも残されていない。このままアミの誘惑に乗ってしまえればどんなに楽だろう。でも頭のどこかにはケィがいてその笑顔をこちらに向けていた。無意識のうちに小さく「ケィ」と呟いていた。すると突然アミがふふっと小さく笑い。
「今は、これ位で許してあげるわ、でも次は絶対に許さないわよ」
そう言ってスッと離れた。アミの体か離れるとやっと気持ちは落ち着いたが、アミの感触がなくなってしまった事を心のどこかで残念に思う自分がいる事も事実だ。一体自分は、何をしに日本を離れてわざわざこんな遠くの国まで来たのだろうか……。アミはラケットを拾いあげ、コートを出て、ベンチの上にあるタオルを掴むと振り返りもせずそのまま行ってしまった。ガランとしたコートの強化ガラスにもたれ掛かり、汗をたくさん吸い込んで冷たくなったTシャツのままその場に座り込んでしまった。結局第2ラウンドも完敗だ、コートの床には水をこぼしたような跡ができた。
部屋に帰ってシャワーを浴びると体が疲労の塊になったがスポーツの疲労感は、心の疲労とは違い悪くなかった。汗で汚れた物を持ってランドリーまで行き、洗濯機の中へ無造作に全部放り込みコインを入れて洗濯機を回した。それから、昨日と同じようにビジネス・センターで電子メールを確認すると、既に未開封の電子メールは優に100通は越えていた。その中にユカリからのメールがあったので、会社に関する新しい情報がないか気になり開封した。
「件名 フォラガモのバッグ
本文 元気ですか、最初に、仕事の事を報告しますね。今日、辞令が出ていました、貴方は長期海外研修って事になってプロジェクトからは実質的にはずれていました。ちょっとショック?変だよね。こんな短期間のうちに色々な事がドンドン起こって。会社の事は何かあったらその都度メールをしますね。次はフェラガモの事、こっちが本題、へへ…へ、欲しいのは、ガンチーニロゴトート 21-3831BKです。見つけたら買っといてね、ユカリ PS. 今夜は同じ秘書課のユキちゃんとお出かけでーす。」
やれやれ、こっちの仕事よりバッグ優先か、でも、彼女からの情報は本当に助かった。こういう情報をライブで流してくれるのはユカリしか居ないのだ。長期海外研修だって?一体会社で何が起こっているのだ。どうなっているのかさっぱり分らなくなった。メール・ボックスの中に残っている各々の電子メールのタイトルをスクロールしながらゆっくりチェックしてみたが、他には重要だと思われる物はなかった。スパムメールやジャンクメールをゴミ箱へ放り込み、PCの電源を切ってビジネス・センターを出た。
ホテルの1階から4階までは大きなショッピング・センターになっていた。インフォメーションにあるディレクトリに目をやると、ショッピング・センター内にはルイビトンやプラダ、フェラガモといったブランド店があった。試しにフェラガモの店に寄り、ユカリの言ったバッグを確認すると黒いキャンバス地で作られた50cm程の手持ちの長いシンプルなハンドバッグだった。値段は日本円に換算すると63,000円もした。ユカリは帰ったら本当にお金を払ってくれるのだろうか?
仕方なくそのバッグを購入しクレジット・カードで支払いを済ませて航空便を使って会社へ送った。領収書を受け取りウォレットに入れる。もし、ユカリが支払わないというのであれば、出張経費で落とせばいいのだ。自分は決裁権を持っていないが、きっとなんとかなるだろう。高い買い物だったが秘書課からの情報は、社内の動きを知るには貴重なソースだ。その買い物を終えショッピング・センターを歩いていると、再び背中に妙な視線を感じた。
振り返ってみたが、ショッピング・センターの通路には大勢の通行人がいて、たとえこちらを監視している人物がいたとしても、ちょっと見ただけでは分りそうもなかった。その視線の先を見ても、特に変わった素振りをする人物は見つからない。でも、何処かの時点から、ずっと誰かに監視され、尾行されているのは間違い。では、誰が何のために監視や尾行をする必要があり、ケィの失踪とどんな関係があるのだろうか、それとも全ては、ケィが居なくなってしまったというショックからくる幻想なのだろうか。いずれにしろその答えを得るには、明後日まで待つしかなかった。
洗濯が終わるにはまだ時間がかかりそうだし、一度部屋に戻ると夕食に出るのが億劫になりそうだったので、そのまま夜の街へ出た。一人で食べるにはホーカーズは安くて手軽だったが、もう3度もあの手軽な食事だったのでもう少し違うものを食べに別の店へ行ってみたくなった。アミの居所が分れば誘って一緒に食事をしても良かったが、このホテルのゲストとはいえ、フロントに聞いても、きっと女性の宿泊客の部屋を尋ねたら断られるに決まっている。
タクシーを拾うとボート・キーへ一人で出掛けた。ここなら一人で食事のできる気軽なパブやレストランが山のようにある。もともとボート・キーはシンガポールを貿易の拠点として利用するために波止場として作られた所だ。しかし、近年貿易の中心となる港湾設備が沖合を埋め立てた地域に移り、この辺りは建物も老朽化し取り残された場所となった。シンガポール政府観光局は残された歴史のある古い建物を利用して地域を観光スポットとして、再開発を行った。シンガポール川沿いには遊歩道が長く続き散歩をすると気持ちが良いので、昼間でも夜でも楽しめた。その遊歩道に沿って古い建物を改造したオープン・エアーなカフェやバーが店を構えていて、そこには外国人の観光客が多く、この中に紛れてしまえ� ��それ程目立たずに食事を取れるし、混雑に紛れ尾行の目をごまかす事ができるかもしれないという期待もあった。川沿いの通りを歩くとバーやカフェでは大きな音でガンガンとロックを流していて、その音が店の外にまで大きな音で流れ出していた。
通りの丁度中ほどに「デジャブ」という名前のパブがあった。店の名前は、マンハッタンでケィやシンディと過ごした日々や、デジャブで働くシンディの姿を思い起こさせた。長い間シンディに会っていないが、今はどうしているのだろうか。もしケィがここへ来ていたとしたら、間違いなくこの店を選ぶのではないかと思い、直ぐにそこに決めた。まだ時間が早いのか客は居なかった。カウンターには柄の入ったグレーのシャツを着た中国系のバーテンダーがいた。テーブルに座りメニューに目を通すと、まだ時間が早くウェイターやウェイトレスが出勤していないのか、カウンターの中からバーテンダーがわざわざやってきて注文をとった。
しばらく待つとビールとシェパーズ・パイとチップスがテーブルに並べられた。料理を眺めるとこんな食事ならホーカーズとあまり変らないと一人で苦笑した。店の中から夕暮れのシンガポール川の流れを見ながらビールを飲み、熱いシェパーズ・パイを食べると、ゆったりとした気分になった。夕食には少し早い時間だったが、泳いだりスカッシュをしたりしたのでお腹がすごく空いていた。そのせいで出された皿はあっという間に空になった。2皿目のチップスを注文しようとしたがやはり思い留まり、その代わりにギネスを注文した。
アルコールが回ってくると心地よい疲れが訪れた。高い背もたれに深く寄りかかり、ここまでの事を回想してみた。本当に、慌しい2日間があっという間に過ぎていった。つい一昨日までは-20℃の雪山にいたのだ。それがどうだろう、今は夜でも30℃を切らない熱帯地方に居る。そして会社は長期海外研修と銘打って、この旅を公務として認めている。一体、自分の周りで何が起こり、これからどうなっていくのだろう。そしてケィは一体どこにいるのだろうか。考えれば考える程、置かれている状況がわからなくなった。
7杯目のギネスを飲み終えるとタクシーを捕まえて、真っ直ぐホテルへ帰った。幸運にもその夜は静かにふけていった。枕元に置いてあったチョコレートを食べてから歯を磨き、着ている物を脱いでバスローブを羽織った。それから閉まっていたカーテンを開いて、ベッドに寝そべって、テレビのスイッチを入るとNHKサテライト・ニュースを見た。アナウンサーは、プロ野球ナイトゲームの途中経過や、大相撲夏場所の結果を解説を交えて、極めてまじめに放送している。日本は大きな事件もなく平和な日々が過ぎていた、期待していた訳ではないが、結局NHKのアナウンサーは最後まで真面目な顔で淡々とニュースを読み上げ、冗談の一つも出てこなかった。
1996年の最高のコーチは誰でしたリモコンでテレビのスイッチを切るとベッドから美しいシンガポールの夜景が窓の外に広がった。ユラユラとゆれるその灯かりを見ているうちに、まるで催眠術にかかったように、深い、深い眠りへの中へ滑り落ちるように入っていった。その闇は深く濃かった、それは空気の中に墨汁をたらしたような黒だった。どこまで歩いて行ってもその闇は終わりを告げる事はない。目を開けているつもりでも、あまりの暗さのせいで、本当に開けているのかどうかさえ曖昧になった。すると突然その闇の中にスポット・ライトで照らされるように古く汚れた電話が現れた。目に映るものはその電話だけだ。「リリリリ……リリリ……」ベルが壊れそうな音で鳴り辺りに音が響きわたる、周りに壁がないのか、その音は反響せず、� ��るで闇の中に吸い込まれてしまうようだ。「リリリ……」電話に出ろと催促するように、もう一度大きく鳴り響く、仕方が無く恐る恐る受話器を取り上げる。すると電話の向こう側で布の擦れる音がする。そして電話から、
「まだよ、焦らないで、もうすぐなの……」
アミの声だった。「アミ?」そう聞いてみる。
「まだよ、焦らないで、もうすぐなの……」
今度はユカリの声だ、「ユカリ?」そう聞いてみる。
「まだよ、焦らないで、もうすぐなの……」
今度はシンディの声だった。「シンディ君なのか……」
「いいぇ、私はケィよ」
その言葉と共に目が覚めた。そこは夢と同じくらい真っ暗なホテルの部屋だった。目を開け、身を起こした。体中にねっとりした汗が細かい点々となって浮かび上がっていた。 しばらくの間体を動かす事ができず半分目をあけたままじっとしていた。枕元にあるテーブル・スタンドのスイッチを入れ部屋を明るくし、ミニ・バーからペリエを取り出して飲んだ。時刻は午前2時を少し過ぎたばかりだ。気持ちが落ち着くと、またベッドに戻りスタンドの灯りを点けたまま目を閉じたると再び深い眠りの中へ入落ちていった。
翌朝、電話の音で目が覚めた。時計を見ると午前10時を少し過ぎた所だった。目を開け窓の外を見ると昨日と同じように青空が広がっていた。気温35℃、湿度82%、頭の中にそういう声が聞こえた、そう思っただけでうんざりした。催促するように電子音がまた響いた。こんな朝早くに誰だろう、ケィかアミしか考えられなかった。寝起きの頭では考えもまとまらない。4度目の電子音が響く前にやっと受話器を取る事ができた。
「何やっているの、外は良い天気よ、早くいらっしゃい」
それはアミの声だった。昨夜はあんな夢を見たので少し気恥ずかしかった。それにしても「いらっしゃい」って何処へ行けば良いのだろうか。
「行くって何処へ行けばいいんだい?」
「決まっているじゃない、プールよ」
アミはどうも既に目覚めてプールの内線電話からここへ電話しているようだ。確かに外は泳ぐには最高の天気だった。これからする事も特に思いつかったし、蒸し暑い街の雑踏の中へ出て行く気にはならなかった。考えるまでも無く、アミの言う通りプールで泳ぐ事を決めた。
「わかった、今行く」
そう返事をして電話を切った。歯を磨き伸びた髭を剃って、水着の上にバスローブを羽織って素足で部屋を出た。プール・エリアに出ると熱い空気で息苦しい。よく晴れた空からは太陽の光が燦々と降り注いでいた。アミは昨日とは違って、白いビキニを着けて、薄い色で大きめのフレームの無いサングラスをかけ、そして白い石の付いたピアスを着けていた。そしてビーチ・チェアに横になり、昨日と同じように不機嫌そうに本を読んでいた。カウンターでバスタオルをもらってきてアミの横にタオルを敷いてそこへ腰掛ける。
「おはようアミ」
そう声をかけるが、本に熱中しているのだろうかアミからの返事はない。誘い出しておいて無視を決め込むつもりなのだろうか。アミには昨日の夜中の電話から完全に振り回されっぱなしだ。でも、外に出きた事は間違い無かった。風と雲は少しあったが、それらは太陽の熱を程良く調節してくれた。都合よく近くを通りかかった昨日と同じウェイターにコーヒーを頼んだ、アミに飲み物の事を聞くと、重い口を開きペリエを注文した。ウェイターはこんな良い天気なのに何を考えているのだろう。昨日はサングラスをしていたくせに、今日はサングラスを外していた。彼は、注文を受けると、アミにわからないようにウィンクをしてダンスのステップを踏むようにバー・カウンターへ戻っていった。
やっと口を開いた後もアミはまだ不機嫌だった。バス・ルームへ行くと言って、読んでいた本のページを下にして立ち上がり、ポーチを持ってすたすたと行ってしまった。プール・サイドで好きな音楽を聞きたかったが、聞こえるのは高層ビルを吹き抜ける風の音だけだった。広いプール・エリアの周囲は高い壁に囲まれていたので、街の喧騒は5階のプール・エリアまでは上がってこない、ビーチ・チェアに寝そべり青い空を見上げていると、本当に自然のビーチで寝そべっているにいるような気持ちになった。暫くするとアミが帰ってきた。アミは帰ってきた後もまだ不機嫌で、本を取り再び読み始めた。アミが口を開こうとしないので、気まずい思いをしたまま、目を瞑り寝そべって風の吹く音を聞いていると、コーヒーとペリエを持ったウェイターが戻ってきた。そして小さなサイド・テーブルにコーヒーカップと氷とライムの入ったグラスを置き、グラスの中にペリエを注いだ。グラスの中の氷にペリエの細かい気泡がプルプルと弾けて、その透明な冷たい水は、暑いプール・サイドで極上の飲み物に見えた。ウェイターに渡されたビルにサインを入れて� ��すと、それを受け取り、また小さくウィンクをしてバー・カウンターへ戻っていった、やれやれ。
ペリエも美味しそうだったが、今は一刻も早く体に、コーヒーのカフェインを入れたかった。寝起きの頭の中は、どんよりと澱んだハドソン川のような感じだ。濃いコーヒーを飲めば澱みが洗い流され、元の清流に戻るのではないかと思った。コーヒーを口に入れ胃の中へ流し込む、カップの底が見える頃になるとやっと澱みが消え、霧が晴れるように、はっきりとした頭が戻ってきた。アミはまだ本を読んでいた。スラッと長い足や、スタイルもさる事ながら、着けている水着とピアスそして彼女の肌の色との組み合わせは、脳の奥深くを激しく刺激した。その脳への直接的な刺激は少し強すぎた。体中の筋肉が一瞬硬直した。無理やり視線をアミからプールへ移すとやっと体が自由になった。頭を振って気持ちを落ち� ��けた、幸運な事に心臓も脈拍もそれ程上昇してはいないようだ。何が起こったのか確認しようともう一度アミを見た。すると驚いた事にそのビーチ・チェアに寝そべっているのはケィではないか。目をこするが、そこに座っているのは確かにケィだった。
ケィと声を出して呼ぼうと思うのだけれど声にならない。きっと何かの間違いだ。だって、そこに居たのは間違いなくアミだったのだから。ケィがそこ居るはずが無い。もう一度しっかりと確認してもそこに座って本を読んでいるのは間違いなくケィだった。嬉しい筈なのに何故か素直に喜べない。きっとこれは幻影なんだ……。それ以外、説明のしようがない。高級なマジックでもあるまいし一瞬にして人が入れ替わる筈がない。しつこく何度確認してもそれは変らなかった。そして、その混乱によって嬉しい筈の気持ちは完全に掻き乱されてしまった。頭を冷やすためにプールへ飛び込んだ。シリコンのような透明な水の膜が優しく自分を取り巻くのが感じられた。気持ちよくだれかに抱かれているような感じだ。プ� ��ルの底まで潜り空を見上げた。そこには青い空と雲が見えた。ケィは戻って来たという事が嬉しくもあり、とはいえ、まだ混乱は全く収まっていなかった。一旦、水面に顔を出し、大きく息を吸って再びプールの底へ戻って水中もう一度空を見上げた。すると水面から誰かがゆっくりと降りてくる、人魚!?そう思えたがそれは白いビキニのケィだった。柔らかいその泳ぎはまるで海の生き物の様だ。
ケィはこちらへやってきて顔を近づけると水中でキスをしてきた。ここに存在し、この唇が触れ、感じているのはケィに間違いない。キスを続け二人とも息が続かなくなると海面に上がった。そして大きく息を吸い込むと再びプールの下へ戻り抱き合ってキスをした。そして息ができなくなるとまた水面へ戻った。何度かそれを繰り返すと、ケィは大胆に、水着の中へ手を滑り込ませてきた。驚いて海面へあがる。そしてプールの縁まで泳いで行きプール・サイドのコンクリートに摑まって息をついた。ケィも後を付いて来て体を摺り寄せた。丁度そのときだった、いつの間にか上空には灰色の厚い雲が現れて、激しいスコールが辺りを打ち付けた。プールに居たゲストやウェイターは皆慌てて屋内へ引き上げていく。冷� ��い水が滝のように空から落ちてくる。もうプールには二人しか残っていない。プールの縁に着くとケィは身を摺り寄せ、手を取って自分の水着の中へ導いた。ケィの大胆さに驚いたが、それを思い留まらせるだけの意志はもう何処にも残っていなかった。
ケィも水着の下へ手を伸ばしてくる、二人は重なり合ったまま再び水の底へ入っていった。水の中から見上げた空がまるで水の中に垂らした絵の具が混じりあうようにグルグルと回って鮮やかな模様を描く。そして息の続く限りお互いの体をむさぼるように愛撫した。そして息が続かなくなると水面に上がった。そして、プールから上がって雨で濡れたバスローブを羽織って髪の毛から水を垂らしながら、二人でエレベータを上がり3212号室へ戻った。ケィの体から濡れているバスローブと白い水着を外し、バスタオルを使って体を丁寧に拭いてあげた。それから自分の水着も脱ぎ裸でベッドへ行った。ケィは1枚のバスタオルを巻き、もう1枚のバスタオルで髪の毛を乾かしながらベッドへ来た。それからバスタオルをはずしシーツの中へ潜り込んでくると。ケィのまだ濡れている髪の毛が枕を濡らした。濡れた髪の毛の冷たい感触が気持ち良かった。ケィの体を包むように抱きしめるとケィはあっと声を漏らす。自分の腕の中にケィの存在を強く感じた。ケィの息使いが触れ合う肌を通してゆっくりと伝わってくる。 それと同時にスコールで冷えた体にケィの体温を感じた。小さなケィの手がお腹を伝って下半身へ伸びてくるのがわかった。下半身が強く反応する。ケィの柔らかい胸に触れると、体がピクッと反応する。ケィの存在を確認するかのようにお尻そして、お腹を伝ってケィの下半身にそっと触れてみた。
プールの水とは違った湿り気がそこにはあった。滑らかな湿り気に従ってゆっくりと指を動かすとケィの足が緊張しそして、背中が大きくのけぞった。ケィの呼吸が急に速くなり、そして息が激しく乱れて呻き声が漏れるのを感じた。ケィを抱き寄せ、それからゆっくりとケィの中に入ると、後頭部がグッツと後ろに反り返り眉間にしわが寄る。二人の呼吸を合わせるようにゆっくりと体を動かす、すると、肉体以外の場所でも何かが同期している事が分かる。何かが頭の中で蛇のように神経へ強く絡みつき、強い快感が全身を包んだ。それと同時にケィも登りつめるような声を上げ、体を硬直させた。そしてそんな波が幾度となく訪れては消えていった。何時間それを続けていたのだろうか。「ケィ見つける事ができた� ��」そんな風に思って安堵感に包まれると、暖かい眠りの中へそのまま落ちてしまった。
次に目が覚めた時、スコールはもうすっかり上がり窓の外には午後の熱い太陽が窓の外に降り注いでいた。シーツを少しずらして腰の位置まで下げ上半身を起き上がらせた。隣にはシーツにくるまったケィが小さな寝息を立てて丸くなっていた。どうしてケィが現れたのか不思議だったが、今、確かにケィは手の届く所にいる。さっきの出来事は知り合ってから起こった最高に刺激的な出来事で、あまりに衝撃的な経験だった。危うくも感じるその刺激に、もう少しで感覚を失う寸前だった。一体何で突然あんな事が起こったのだろうか?それから、その余韻を楽しむように暫く窓の外を眺めてのんびりしていると、ケィが小さく動いた、そしてゆっくりと動き出しシーツの隅から顔を出してこちらを見つめた
そこには、いつものケィの寝起きの顔がある筈だった。その顔を覗き込んだ瞬間、体が硬直してしまった。シーツの中で丸まって寝ていたのはアミだった。目を瞑ってさっきまで起きた事を考えてみた。確かにここにいたのはケィだった。全ての感触がまだ体中にはっきりと残っている。そしてそれは間違いなくケィの物なのだ。でも、いまシーツの中からゆっくりと起き上がろうとしているのはアミに間違いはなかった。シーツに包まり上半身を起こしたアミは可愛くそして満足げに微笑んでいた。何が起きたのか全く理解できない。さっきまでアミの居る場所にケィが居たのだ。そして間違いなくケィをこの腕で抱きしめたのだ。失望と、混乱とケィに申し訳ないという気持ちで、考える気力さえ失せていた。アミは� ��う不機嫌でも高圧的でもなかった。そこに居るのは若く美しい1人の女性だった。目を閉じると自分の目元が涙で潤んでいるのが感じられた。静かにベッドから立ち上がり、バス・ルームへ行くとアミの白い水着と新しいTシャツを持ってアミにそれを差し出した。
「アミ、すまない、これは違うんだ……これは間違いなんだ、何かが間違っていたんだ。本当にすまない。こんな事を一方的に言ってすまないが、お願いだ少し一人にして欲してくれないか」
そこまで告げると、アミは何かを理解したかのように水着を着け始めた。そして水着を着け終わるとその上に、新しいTシャツをかぶった。そしてまたいつもの不機嫌な顔に戻り、自分の部屋のキーを持って何も言わず出て行った。アミの着ているTシャツの背中に書かれている「But I don't miss you!」と言う文字が、ケィからのメッセージのように心の奥に突き刺さった。ベッドにうつ伏せになると、顔を枕に強く押し当てた。その枕はプールの水でまだ少し湿っていた。
「ケィ、どこにいるんだ……一体どこへ導こうとしているんだ……」
どれ位時間が経ったのかわからない。外はまだ少し明るかった。気持ちに反して肉体は暴走する馬のように元気で、体中がエネルギーに溢れていた。そしてベッドから苦も無く簡単に起き上がる事ができた。体に染み付いた物を洗い落としてしまいたかったので、バス・ルームでまだ濡れている水着を着け、もう一度プールへ向かった。そしてもう一度プールの底に潜り、それから腕が疲れて動かなくなるまでそこを往復した。最後は、仰向けになりもう疲れて動かなくなった手をたれて水面に漂った。そんな事をしても起こってしまった事を取り消せない事位わかっていた。もう陽はたっぷりと落ちていた。プールの中の水銀灯が点り水の中は明るくなった。底に潜って夜空を見上げると、明るい水の中から、空に散り� ��められた輝く星を見る事ができた。
部屋に戻りシャワーを浴びてテレビを点けた、NHKのサテライト・ニュースでは相変わらず、政治家の汚職と企業買収、そしてプロ野球の再編など相も変わらないトピックを流していた。違う事と言えば何処かの山岳会が雪山で遭難し2日たった今日無事帰還した事だった。2日と言えば日本を出発した日だった。やれやれ、その間彼らは厳寒の雪山を歩きこちらは猛暑の熱帯の街を走りまわっていたのだ。そして彼らはニュースになり、こちらは社会から忘れ去られようとしている。ともあれ、相変わらず日本には平和な日々が流れていた。そうしていると、また電話の電子音が響いた。それは、アミに違いなかった。あんな事をしてしまって謝る言葉もなかった。無意識とはいえ許されることじゃない。謝って済む事ではないかもしれないが、兎に角会って謝りたかった。ベッドから降りて椅子に座りテーブルの上に乗っている電話の受話器を取った。
「そこに居るのね」
やはりアミだった。「そこに居るのね」って言うのはどういう意味だろう。確かにここ居る。たぶんこれはアミの持ち前の表現方法なのだろう、2日間かかけてやっとそういう事が学習されてきたようだ。声は相変わらす低く感情が読みくい。
「さっきはすまなかった。謝って済む事じゃないと思うけど、会って謝らなければ気がすまないんだ。夕食がまだなんだ、良かったら夕食をしないか?」
「何の事を言っているのかよくわからないけど、私は子供じゃないのよ、自分の行動くらい分かっているつもりだわ、私には変なセンチメンタリズムは必要ないのよ…。まぁいいわ、私も貴方を夕食に誘うために電話したのよ、丁度良いタイミングだったわね、じゃあ8時にロビーで会いましょう。行く先は貴方が決めてね」
それだけ言うと電話をガチャっと切った。アミはいつもようにクールで一方的だった。変にセンチメンタルになった自分が正しいのか、アミが正しいのか分らない。でも、それは多分、正しいとか正しく無いと言う事ではなく持っている愛情の重さや価値観によって決まるのだろう。そんな個人的な事をジャッジなんてできやしなんだ。そもそもアミと自分の個体は全く違うのだと言い聞かせ、もう一度、自分自身を戒めた。
アミを食事に誘ったのは良かったが1つだけ大きな問題があった。着ていく洋服と靴がなかったのだ。8時までにはあと40分あった。3階のショッピング・センターへ行き、レストランで食事をするのに適当な服を調達するしか方法ななさそうだった。急いで3階まで降りて、店に入り、麻のジャケットと白いカッター・シャツ、そして皮のベルトやソックスと薄い茶色の皮靴を揃えた。荷物は増やしたくなかったが、仕方が無い、明日になればケィをつれて帰る事ができるのだ。荷物が多少増えた所でかまわない。それにいざとなれば出張経費で落とせる……これは公務なのだ。部屋に荷物を持ち帰り、着替え終わると丁度8時になる所だった。慌ててエレベータに乗りロビーへ降りた。
航空機poiletが言うなら、彼はケベックそれが何であるかを持っているアミの姿を見た瞬間思わず唾を飲み込んでしまった。そこにはバイアスの入った白い布地に襟のあるノースリーブのワンピースを着たアミが立っていた。アミは白いミュールに、ピンク色の皮のハンドバッグ、耳にはプールでしていた白い石のピアスそして首には大きなダイヤの入ったプラチナのネックレスをしていた。 アミは、プールやスカッシュ・コートの時とはまた違ったメィクをしていた。一見、地味なワンピースだったがそれが逆にアミを引き立てていた。何にでも化けられると言っても嘘にはならない。勿論、ここでも行きかう人達の目を引いた。それ程アミは美しかった。ケィの幼さの混じった可愛さと比べるとアミの可愛さは、長い年月かけてじっくりと樽でて熟成させ、丁度飲み頃になったワインのようだった。洋服を買い揃えて良かったと胸を撫で下ろした。アミに少し待って欲しいと頼み、コンシェルジェの所へ行くとアミを指して
「あの婦人と食事に行くのだけれど適当なレストランを予約して欲しい」
と頼んだ。そうするとコンジェルジェは、カタログからマンダリン・ホテルの最上階にあるフレンチ・レストランの予約を入れ、タクシーを呼んでくれた。自動ドアを出てタクシーに乗った。その近代的なホテルには重い扉も無かったし、その扉を開ける力自慢のベル・ボーイもいなかった。
マンダリン・ホテルまではタクシーで10分程だ、レストランはそのホテルの39階にある。高速のエレベータで最上階に上ると円形になったラウンジの中央に出る。そこは直ぐレストランの入り口になっていた。中へ入るとギャルソンが予約を確認して、
「お待ちしておりました。」
と丁寧に言った。ネクタイを締めていない自分の服装が気になったが、そこは常夏の国なのだ、と都合の良い言い訳で封じ込めた。
ギャルソンは、景色の良い窓際の席へ案内してくれた。そのレストランは客がまばらに入っていたが、店内は広いので、隣の人の話が聞こえる程近くに別の客はいなかった。最初に、ソムリエが持って来たワインリストからオーパス・ワンを注文するとアミはフレンチ・レストランに来てわざわざアメリカのワインを注文するなと怒ったが、シンガポールでフレンチなのだから仕方が無いと反論した。確かに何時の時もコーディネーションは必要だ。そういったコーディネーションのセンスが著しく欠けているのも自分でわかっていた。そして、いつもそれを補ってバランスをとってくれていたのがケィだった。そうだケィも丁度今のアミと同じように怒ったものだった。そんな事ではケィとアミは似ていた。それを思い� ��して苦笑するとそれを見て、アミがまた不機嫌な顔をした。シェリー1杯とワインを1本注文し、それらを前菜の牛フィレ肉のカルパッチョとホワグラのテリーヌを食べながら飲んだ。食事が進むにつれ、アルコールの力によってアミの機嫌もすっかり直っていた。子牛の肉料理やテンダーロインのオントレーを食べながら話をした。コンピュータの話をしてもムードが盛り上がらなかったので、もっぱらアミが話しを引っ張った。
アミはあるエージェントに属していてその組織の一人として働いていた。潤沢な資金を持つその組織は世界的なネットワークを持っていて各国にそのサテライトがある。今の本部はニューヨークにあるが、組織の起源はアジアの中の何処かの国らしい。でも、それが何処かは秘密にされ末端のアミ達には知らされて無いのだった。アミは、エージェントと契約しその組織のネットワークを利用して仕事をしているが、主な仕事はエスコート・ホステスとメッセンジャーの仕事だと説明した。「エスコート・ホステス」とは聞き慣れない職業だったので、それが何か聞き直すと、
「聞こえのいいプロスティテュータよ」
と言い直した。それを聞くと昼間の事を急に思い出してしまった。アミをそんな風に扱ったつもりは無いと、昼間の事を素直に詫びると。
「いいのよ、そんなに考えなくても、私は大丈夫よ、そんな事には慣れているし、だって、そういうのは私の仕事の一部でもあるんだから、いちいち傷ついていられないわ」
とアミは窓の外の夜景を眺めながら言った。高さ173メートルの所にあるこのラウンジはゆっくりと回転していて、約2時間15分でオーチャード通りを始めとするシティの夜景が360度見渡す事ができる。アミが窓の外を眺めた時その向こうには、オーチャード通りの煌びやかなネオンと街灯がミルキィ・ウェイの様に見えた。ドライに言い切るアミだったが、その目の奥には少し寂しそうな陰りがあった。
「ふふ、でも、許してあげる代わりに一つお願いがあるの、それは後でね」
そう続け意味ありげな視線を送ってきた。その視線にたじろぎながらも、自分が一番尋ねたい事をダイレクトに接尋た。
「今回のクライアントは誰なんだ、それを教えてくれないか」
「もうこれ以上組織の事は話せないわ、これ以上知ると貴方も私もどうなるか保障が無いもの」
そう言ってアミは口を閉ざした。そう聞いた以上関係のないアミに迷惑をかけられないので、それ以上問い詰める事はできなかった。デザートを食べ終わるとアミはもう少し飲みたいと言ったので。マンダリンのラウンジからの景色を見ながら飲む手もあったが、その景色も少し食傷気味だったので場所を変えて飲む事にして、レストランを出ると、タクシーでまっすぐスタンフォード・ホテルへ帰った。スタンフォード・ホテルの70階にあるバーラウンジの景色はさらに美しいとアミが提案したので、ホテルに着くとエレベータで70階に上がった。
そこからシンガポールの夜景を見ていると遥か東京の夜景まで見えるのではないかと思える程、遠くの光が目に入った。窓の向こうには街の明かりが星のように何処までも遠く広がっていた。注文を取りに来たウェイターにビールを、アミはジンをロックで注文した。そして注文したコースターの上に乗った飲み物を持つとシンガポールとアミとの最後の夜へ乾杯をした。少し心残りだかアミともこれでお別れだった。エージェントへコンタクトすればアミと会える筈だが、多分アミにその連絡先を聞いても無駄な事だろう。多分、良く言えば国際的なモデルクラブのエージェント、悪く言えば国際的な高級売春組織だろう。そんなエージェントは普通のサラリーマンには、一生縁の無い物に違いない。ただ単純な好奇心� ��ためにアミに聞いて見た。
「アミの相場は、そのエージェントを介すと1晩あたり、どれ位なんだい」
「相場ね……商品として扱うには悪くない表現だわ、そうね……知りたい?いいわ、後で請求書を送るから払ってね、ふふ、普通は1晩、米ドルで3,000-5,000って所かしら。でもそれはあくまでノーマルの場合ね。後は、オプションによって違うのよ」
「驚いたな、ずいぶん高いんだ…安月給じゃ支払えそうにないな、もっと話したいけど仕方が無い、今日はこれで帰るしかなさそうだな」
「ばかね、貴方は特別よ、今夜は特別料金でいいわ」
とグラスに残っていたジンを空けた。「特別料金」というのはどういう事なのだろう。アミの言葉がどこまで本気でどこまでが冗談なのかわからない。聞いていると全てが本当で、全てが冗談のように思えてくる。最初からアミに主導権を握られてしまったのだから仕方が無い……空になったグラスを持ち上げてウェイターを呼び2杯目のビールとジンのお代わりを注文した。ラウンジの席は、高層階からのウィンドウ・ビューを楽しみながらワイン・やカクテルを楽しめるように、半楕円形のソファーが窓に向かって置かれていた。そのソファーに座ると、二人だけの時間を楽しむための個室のように、夫々の座席のゲスト同士は互いに見えないように作られていた。そして、その席に着く前からもっと早く気づくべきだった。
ウェイターが注文を取り終わり行ってしまうと、アミは今まで経験した仕事の中で最も変わった体験を、順を追って克明に話してくれた。色々な場所、物、道具を使って繰り広げられたその奇異な体験は、もしそれが作り話ではなく本当の事だとすると、我々サラリーマンでは想像にも至らない物だった。そしてアミはどんな条件でも、その要求に反する事無く、きちんと応えてきたのだと、思い出すように語った。そしてそれはまんざら作り話ではなさそうだった。そして、
「だから普通では感じられなくなっちゃたのね…ふぅ」
大きなため息をついて、もう空になったグラスを取る振りをして急に体を摺り寄せて来た。ワンピースの下にはキャミソールだけで、ブラジャーを着けていないらしい。腕や肘にアミの柔らかい胸の感触が伝わってくる。そして空いたグラスを手で回して氷でカラカラと音を立てて遊んでいる。右手がゆっくりと腿の上に乗せられる。その間もアミはその官能的な経験段を、まるでプロの声優のような抑揚を付けて官能的に語った。
ウェイターがビールとジン・ロック置いてその場を離れるとその話とアミの右手の動きがさらにエスカレートした。相手が一晩US$3000取る極上のプロだと言う事を判ってはいるものの、その手や指の使い方の巧みさに何の抵抗もできない。こういうシチュエーションにおいて、そういうプロを相手に素人が勝利できる確率は0%だ。ここはアミの土俵だ…それを頭では理解しようとしてはいるが、悲しくも体が動物的に反応してしまう。こうなると完全にアミの思う壺だ。
「さっき、許してあげる代わりに一つお願いがあるって、言ったのを覚えているでしょ、じゃあ約束を守ってね」
さっきの約束なら覚えているが、こういうシチュエーションで使ってくるとは思っても見なかった。すると突然、アミは左手を取ってその手を右胸においた。胸に手が乗るとワンピースの布地を通して柔らかい乳房の上で乳首が硬くなるのがわかった。掌は自分の意思に反して乳房をすっぽりと包み込み指と掌が乳房全体を揉みほぐすようにゆっくりと動きだした。アミは小さく吐息を漏らす。アミの呼吸がその掌を通して感じられ、自分の呼吸も自然にその呼吸に同期してしまう。すると今度は、右の手首をそっと持つと掌を顔方に向け、そしてアミの顔の傍まで持ってくると親指、そして人差し指の順にゆっくりと唇と舌を使って愛撫を始めた。その愛撫は指が先端からまるでソフトクリームが溶けるように、指先か� ��トロリと溶けてしまうのでないかと思う程甘く官能的だった。実際、指はそこにあり、その感覚だけが増幅され、指以上の感覚を持つ別の物に変化させられていた。
高層ビルから見る夜景は虚ろではっきりとしない。全ての感覚は手先に集中していた。そしてその感覚は、自分の下半身の物にも良く似ていた。でも、それは下半身のように刹那的な物ではなく、じんわりと継続的な快感だ。手はもちろん生殖器でなない、だから、生理的に上り詰める事はなく、その快感が果てしなく続いた。思わず吐息が漏れ声が漏れてしまう。アミはその様子を意地悪そうな目で眺めながら唇と舌と使って愛撫を続けた。アミが唇と舌を離した後も手からその感覚は消えなかった。増幅されたその感覚により、鼓動と血管が脈打つ毎にその快感を全身に伝えた。下半身が反応しているかどうかなどもうどうでも良かった。その感覚はそれを遥かに超えていた。するとアミはその手を自分の下腹部の方� ��移動した。アミは大胆にも白いワンピースの下には何も着けていなかった。アミの顔を覗き込むとほんの僅かな微笑を浮かべ目を閉じた。
アミの唾液で濡れた指は下腹部でアミの体液と交じり合った。自分の指がまるで別の生き物のようにヌルヌルとその場所で動き出す。そしてその指とアミの下腹部が融合し一つのまた別の生き物のように動きだした。その軟体動物はアミの下半身と融合しゆっくりと動き回った。止め処も無い快感が全身に流れると、アミもそれと完全にシンクロするように声を漏らす。2個の生命が別の場所を通して同じ感覚を共有していた。アミは目を瞑り天井を仰ぐ、胸は早く大きく動き息がだんだん荒く激しくなる。それと同期してもう手とは呼べないその器官の感覚もさらに強くなっていく。アミは唇を噛み大きな声を漏らさないように耐える。アミの眉毛が顔の中央に引き寄せられ眉間に皺が寄り呼吸がさらに大きく激しくなった。すると突然、暗い空が割れそこから強い光線がスポット・ライトのように2人に向けられた。それと同時にアミと自分の一部が頭の中で一つに融合しそして再び元の様に分離して2個の個体に戻った。
アミはまだ小刻みな呼吸を繰り返しぐったりとして肩に凭れ掛かっていた。手をゆっくりとアミの下腹部から離すと、自分の指がまだそこに残されているのを見て安心した。唾液とアミの体液で濡れた5本の指はキラキラと輝いてちゃんとそこにあった。それは今まで経験した事のない不思議な物だった。あれは一体何だったんだろう、アミの能力なのだろうか。深呼吸をするように大きな息をついてアミが起き上がった。アミの目はまだトロンとして焦点があっていない。そしてもう何も話しはせず、ただ互いの手をとってしばらくの間広がる闇とそこに散りばめられた街の灯りを、頭を空にして眺めた。ケィは本当にこの街のどこかにいるのだろうか……、頭の隅でそんな問いかけが、傷がついて針が飛ぶレコード盤のように何度となく繰り返された。
のろのろと起き上がりビール・ジョッキを取って中身を一口飲み込むとアミの呪縛が解けやっと体が自由になった。アミの頭もやっと動き出した。今の事を聞くと、相手がそれにきちんと気づけば電話やメディアを通して同じ事ができると言う事だったが、それは実際に経験してみなければ理解できるものでは無い。アミは起き上がってジン・ロックのグラスを取ろうとした。しかしまだ体にうまく力が入らないのか、少しよろけたので、代わりにグラスを渡そうとして持ち上げた。するとまた何かが頭の中を過ぎった。
重要な何かが視界の中に入った時の直感だった。それはほんの一瞬の出来事だ、持ち上げたグラスを上下斜めから見回すがそれらしき物は見つからない。そんな行動を見てアミは不思議そうな顔をしている。しかたが無いので、アミにグラスを渡して自分のビール・ジョッキを再び取ろうとすると、アミのグラスが置いてあった場所にコースターがある事に気づいた。そのコースターにはこの店の名前とロゴが印刷されていた。店の名前は「コンパス・ローズ」そしてロゴには羅針盤の絵が使われていた。そのコースターを見てこの店の名前がやっと「コンパス・ローズ(羅針盤)」だった事を思い出した。何度もエレベータの前を通り過ぎているのに全く気づかなかったのは注意不足なのだろうか。突然ハンマーで頭を叩かれたような衝撃が走り、あと少しでビール・ジョッキを落としてしまう所だった。アミはますます不思議そうな顔をしてこちらを見ている。何かが間違っているそう感じた。全て解決したと思っていた。全ては導き出した解答で終わる筈だった。しかし少しずつ積み上げたブロックが、ガラガラと音を立てて崩れていく幻影が目の前に写し出された。既に出した推測が本当に間違っているのだろうか、そして導き出した場所は違っているのだろうか。諦められず、出した結論を立証する証拠をいつの間にか求めていた。
不安が心の中に広がり焦りが募った。時間を教えてくれたのはアミだ。アミが場所も聞いていないかと思い直接聞いてみたが、アミは本当に時間しか聞かされていないと言い張った。もし知っているのなら、きっとアミは何か教えてくれるに違いない、そう信じて、それ以上聞くのをやめた。アミに今直ぐに部屋へ戻る事を告げ、伝票を持ち立ち上がった。アミはもう少し飲みたいなどとぶつぶつ言っていたが、仕方なくそれに従って一緒に店を出た。1階まで直通のエレベータで一度地上に降りて、別のエレベータに乗り換え32階まで上がった。アミはそのまま自分の部屋に帰るのかと思ったが、一緒に部屋まで付いてきた。余計な事をしたりしなければアミの存在は、一人きりでいるよりは心を落ちつかせてくれる。好きにすればいい。いずれにしろ今夜が最後の夜なのだ。
真鍮でできた重い鍵を出してドアを開け部屋へ入る金庫からメモやガイド・ブックを出して全て床に並べた。アミは、何も言わずにハンドバッグからメィク落としと歯ブラシを出してバス・ルームへ行った。アミはここへ泊まる準備をしていたのか、それともそれは女性の嗜みなのかわからなかったが、アミがそうしている間に資料をもう一度、一つ一つ見直した。時刻は午前1時、今出ている答えが本当に正しいのかどうかもう一度考える。勿論穴は沢山あるし、完璧な答えなんて有り得ない。でも、もし正しい答えが別にあるならばそれを導きださなければいけない。アミの言った6時までは残り5時間だ。
アミはハウス・キーパーが新しく用意してくれたバスローブを羽織って出てきた。しばらく近くに来てじゃれついていたが、床に並べた資料を真剣に考えている姿を見て相手にされそうも無いと思ったのか、並んでいる資料の中から機内誌の切れ端をすっと取り上げ、それを持ってさっさとベッドへ上がりバスローブをベッドの上に脱ぎ捨てると、裸になってシーツの中へもぐり込んでしまった。
「ねぇ、さっき聞いていたけど、あなたは誰かを探しているのよね。あなたの探しているのは細身で髪の毛の短い女なの」
「えっ、違うよ、でも何故?」
「何故って、その女がメッセージを伝えて欲しいと依頼してきたのよ」
「その人の特徴は、髪の長さと体型の他に何か無いの、国籍とか目の色とか、何でもいいんだ」
「そうね、身長は私よりすこし高かったから、170cm以上はあったと思うわ、髪の毛はショート、ウィッグには見えなかったわ、国籍は英語のアクセントからすると多分、広東か香港の中国人ね、かわいい人だったわ」
「そうか、探しているのは、身長164cm丁度アミと同じくらいかな、髪の毛は茶色く染めていて長いんだ」
「ふぅんそうだったの、貴方が探しているのは、メッセージを届けてくれた女じゃないんだ。エージェントの指示で細身のその女にマニラで会って、その女からメッセージの内容と届け先、つまり貴方ね、それから貴方の写真ホテルの名前やルーム・ナンバーを聞いてここに来たのよ」
最初に電話の中でアミが「がかわいい人ね」と言っていたのはケィの事ではなさそうだった。今アミが言った事が真実なら、ますます疑問が深まる。さらにケィはシンガポールに居ないんじゃないかという不安が間欠泉のように沸き起こってきた。アミにメッセージを伝えた人物は一体誰でケィとどういう関係があるのだろうか。情報の量が増えたが疑問もその分増えてしまった。資料を目の前に考えてはいるが進展は全くなかった。やっぱり最初の推測が正しいのだろうか。そんな妥協的な考えが気持ちを揺らす。諦めの気持ちが強くなりかけた頃ベッドの中でアミがぶつぶつと呟いた。
「貴方の探している人は何月生まれなの?」
「8月だよ」
「そう、獅子座ね、偶然ね、私と一緒じゃない、えーと、このホロスコープは、何これ、全然意味がわからないわ」
「獅子座か、分からなくて当然だよ、それはケィからのメッセージが暗号化されたものだからね」
「えっ、誰、ケィって、名前からすると貴方が探している人?」
「うん、ガールフレンドだ。名前はケィという日本人だよ」
「ふぅん、それが貴方の探している人ね、少しわかったわ、でも何でこれがメッセージなの」
アミがそう尋ねたのでその仕組みを説明した。アミは興味をもってその話を真剣に聞いて大まかにはその仕組みを理解したみたいだった。アミの頭の回転はすごく速かった。もしかしたらもうこのメッセージを解いてしまったのかも知れないとさえ思われた。
「ふぅーん、なるほどそう見ればそうね。そのケィって子と私と同じ星座ならきっとシンガポールには親しみのある土地ね。何といってもライオンの国だしね、マーライオンが国の象徴なんてまるで8月生まれの国だわ。ねぇ、マーライオンってここに何体あるか知っている?」
そうアミに問われたので、ガイド・ブックを開いてその像が建てられている場所を調べてみた。1体・2対・3体・4体・5体。アミの質問への答えは5体だ。
「5体だ」
「正解よ、ちょっとこっちへ来て」
というので近づいていくと、裸のアミが抱きついてキスをしてきた。適度に筋肉と脂肪がついたアミの体は官能的で魅力的だ、そんなアミの誘惑を振り払うのは、冬眠が明けた熊がダイエットをするのに等しい。
「これは正解のご褒美よ。ねぇ、そんな事は後にして早く寝ましょうよ」
アミはそう言うと腕を放そうとしないので、アミにケィとの関係や思い出を話して聞かせるとアミはしぶしぶ手を放して、つまらなそうにシーツの中からあの機内誌の紙と枕をこちらに投げつけ、そのままシーツの中に包まってしまった。投げつけられた機内誌はひらひらと空中を舞い、枕は窓に当たり音も無く跳ね返った。ベッドを離れて機内誌の切れ端を拾い上げ、そろっている資料をしばらく手にとって眺めていると、シーツの中から寝息が小さく聞こえてきた。
アミが言うように、ガイド・ブックの中には確かに5体のマーライオンの場所が書かれていた。そのマーライオンの場所を確認してみると。2体は同じマーライオン・パークにあったオリジナルで背中が向かい合わせの物だ、次の1体はセントーサ島にある巨大な物、そして後はセントーサから少し離れたマウント・フェーバーにあり、最後はシンガポール観光局にある1体だった。場所を確認するために地図を広げてその位置を確認し、ボールペンでその位置に星印を書き入れた。ボールペンで5つのライオンの位置を書き込むと、地図に4つの星が表れた。5体のライオンが4体に減ってしまったのはマーライオン・パークにあった2体が凄く近くにあったので、1つの星になってしまったためだった。4つの位置…ケィの残したメッセージの4つの位置と重なる。そうか、コンパス・ローズを中心にその星の位置を割り出せば何かわかるかもしれない。そして5個目の点をこのホテルに置いた。そしてホテルの星を中心にその星を結んでみた。
地図の隅には縮尺を示すルーラと、北を示す矢印が印刷されている。その方位をホテルの部屋に有った薄い便箋に、偏差の事は考えずに写し取り地図の上に乗せた。すると地図にプロットした星が薄い便箋を透して方位軸の中に浮かび上がった。それらの方位を一つ一つ確認するとマーライオン・パークのライオン達は、南つまりSを示し、セントーサ島の巨大ライオンは南西つまりSW、そしてマウント・フェーバーのライオンは西南西WSW、そしてシンガポール観光局は西北西WNWで、ケィの残したメッセージにぴったりと一致した。それはジグソウパズルのピースが組みあがり、次第に絵が表れてくるのとよく似ていた。
ここまでの推測は正しそうだったが、また新しい問題が生まれた。一体朝の6時に何処へ行けばいいのかわからない。場所は4ヶ所あり勿論同時に行く事はできない、どこか一つの場所を選ばなければいけない。確立は1/4だった。どれかに賭けて行ってみるか…それはあまりに大きい賭けのような気がした。そしてまだ時間はあるのだと自分に言い聞かせた。時間は午前2時、指定の時間まであと4時間だった。静まり返った部屋の中にアミの気持ちよさそうな寝息が小さく聞こえた。そしてその音に混じり大きなため息が部屋に響いた。確率は1/4、つまり25%だ。ケイの事を思うと失敗は許されない、25%は余りにも低い確率だった。でも、いくら考えても次の一手が思い浮かばない。脂汗が額にじわりと滲んでくる。
マーライオンと聞いて一番初めに思い出すのは、はりマーライオン・パークで、観光をするには最もポピュラーな場所だ。さらに、当然の事ながらオリジナルのマーライオンがある事で、そこが一番可能性が高そうだ。でも、そう決め付けてしまうのは早計すぎる、もっと良く考えるのだ。セントーサのマーライオンは5つのマーライオンの中では一番大きい。大きく目立つと言った意味ではランドマークとしてぴったりかもしれない。しかしそれも単なるこじつけだ。きっと本質ももっと別のところにある。大きさや目立つ事に何の意味があるのだろう。マウント・フェーバーとシンガポール観光局のマーライオンはどうだろう。マウント・フェーバーのマーライオンは以前セントーサ島へ行くのにケーブルカーを使った時に見たが、白いマーライオンが公園の一角に建てられている、それだけの印象だった。シンガポール観光局に至っては全くアイデアが出てこない。オーチャードの先に建てられている事は知っているが、実際に見たことはないのだ。指定された時刻にその場所で何が起こるのか知らないが、あまり人に目立たない方� ��都合良いと考えるかもしれない。しかし後の2つも確固たる理由がある訳ではなかった。
時間は容赦なく過ぎて行く。何を見ても新しい考え方は出てこない。眠気を抑えるために、何かエクササイズがむしょうにしたくなった。プールかジムへ行って軽く体を動かしたかったが、ホテル・デイレクトリにはプールもジムもこの時間ではアクセスする事ができないと書かれていた。仕方がないので、ズボンを短パンに履き替え上半身裸になり、マーライオンの謎の事を考えつつ、腕立て伏せや腹筋運動そしてスクワットなどのウエィト・トレーニングをする事にして、床にバスタオルを敷いて寝そべった。個々の筋肉が一つ一つちゃんと動くように意識して丁寧に、運動を始めた。こうやって何種類かの筋肉トレーニングを5セット繰り返し最後にゆっくりとストレッチをして筋肉を伸ばすと、体と頭が活性化して気分は爽快になり、眠気はずいぶん治まった。指定時刻まであと3時間と少し、こうしている間も時間は刻々と過ぎていく。汗をかいたので熱いシャワーを浴び着替えを済ませた。ベッドへ行ってアミを見るとシーツから顔をだして気持ちよさそうに眠っている。少しはだけたシーツを直そうと手を伸ばすと、アミの形の良い右の胸が見えた。雑念を振り払う様に頭を振ってシーツを上まで引き上げそれを隠した。
そして、新しいアイデアも思いつかないのでアミを残し、汗が染みた洗濯物を持ってランドリーへ行き、洗濯機を動かしてビジネス・センターへ行った。ビジネス・センターは24時間サービスを提供しているので、この時間でもPCを使いインターネットへアクセスする事ができる。一昨日と同じようにPCのあるブースへ行きインターネットにある自分のメール・ボックスにログオンした。メール・ボックスには既に300通越えた電子メールがスタックされていた。メール・ボックスの容量には制限があるので、先ずジャンクメールを全て削除し、残った中から更にタイトルを見て不要と思われる物をまとめて削除した。そして、もう一度メール・ボックスに残っているメールのタイトルを注意深く読み、本当に必要と思われるメールのみを開いて簡単に目を通した。幸運にもそれらのメールの中にプロジェクト進行の問題や障害を連絡するためのメールは無い。全てのプロジェクトは問題なく動いているように見えた。会社は自分抜きでも順調にそして問題なく動くのだ。
ユカリからのメールもあった。仕事やそれ以外にも重要な連絡があるか確認する上で、ユカリからのメールは重要だった。会社内部のゴシップを含め、色々なレベルでの社内情報をユカリは彼女の秘書と言うポジションを利用したり、女子トイレの中でチャットを利用したりして、巧みに入手して流してくれる、ある意味素晴しい情報収集能力だ。ユカリからのメール・タイトルをクリックしてメールを開く。
「件名 昨日はメール来なかったけど、読んでいますか?
本文 最初に仕事の話、今日は貴方についての出来事は何も無かったわ、自分の事が話題に上らないと寂しい?早く帰って来ないと忘れられちゃうわよ。大きなニュースはスギタ事業部長も海外赴任になるって事ね。情報に間違いがなければシドニー支社への赴任になる筈です。辞令はまだ出ていないわね、これはまだ会社でもProprietaryレベルの情報よ。いつものように社長のドキュメント作りを手伝っていたら偶然見ちゃったのよ。今日の大きいニュースはそれだけ。他には、えーっと、総務のマサミが結婚する事になったの、ちょっとショック…、同期で残っているのは私を含め後3人、少しあせるわね。これ見よがしに披露宴に呼ばれたちゃった。まぁいい、くやしいけど祝ってあげるわ。それじゃ、今日はお花のお稽古なの、……次は絶対、私の番よ。
P.S.フェラガモのバッグは見つかった?」
スギタが海外赴任か、事業部長の後任は誰なのだろう。まぁ、早く今の状況を脱して、会社に復帰しなければ……。そして、ユカリへ連絡のお礼とフェラガモのバックを航空便で送った事をメールに書き、会社に戻る頃には着いているだろうと付け足してメールを返信した。それから仕上がった洗濯物をランドリーからピックアップして部屋に戻った。ベッドの上に腰をかける。アミは可愛い寝顔をしてぐっすりと眠っている。まるで毒を飲まされた少しエッチなお姫様のようだ。でもお姫様も実際はこんな風に人間的なのかもしれない。6時までは後1時間半だ。焦りが強くなってきた。目の前に時計の秒針が時を刻んでいる様子が見えるようだ。額に汗がにじむ、もう何度も繰り返して来たことだが、再度資料に目を通した。同じ視点で同じ事を繰り返しても、やはり新しい事は何も見つからない。そして、同じ事を13回も繰り返し、14回目にケィの残した置手紙を見た時、ふとある事が気になった。ケィがその置手紙に書き残した「不屈の魂を持って、私を探して」と言うメッセージだった。何故単に「私を探して」ではいけないのだろうか?シンガポール行きのチケットを残してあったのだから行き先は明白だ。あえて「不屈の魂を持って」を加える必要は無いのではないか。では何でこの修飾子が必要だったのか…そこに何か強い思いが込められているのではないかと考えるのは自然な流れだった。
そして過去から今までケィと過ごした時を順に追って考えてみた。ニューヨークから横浜のマンションどうしても、その言葉に関係する物や出来事を思い出す事ができない。照合や検索をするにはインターネットを利用するしかない。そう考え、慌ててビジネス・センターへ戻ってPCを起動した。ブラウザを立ち上げ検索エンジンに「New York Fortitude」と入力し、マウスでSearchボタンを押した。結果が返ってくるまでの時間がもどかしい。10秒もすると検索結果が画面に表示された。
1. The New York Public Library, Astor, Lenox, and Tilden - Fact Sheet - Hoover's
... 42nd St. New York New York Public Library United States Q ... lions outside New York Public Library's main branch? A: Inside the library, where Patience and Fortitude (their names ...
2. The Library Lions
... Fortitude. The world-renowned pair of marble lions that stand proudly before the majestic Beaux-Arts building of The New York ... Lenox, after The New York Public Library founders John ...
結果は1,120,000件もあったがもうこれで十分だ。あっけなく結果が出てしまうと少し残念な気持ちも残ったが、長い間思い出せなかった曲名が急に思い出せた時のように爽快な気分になる事ができた。そうだ、ニューヨーク市立図書館の入り口に並ぶライオンには、「Load Astor:忍耐(patient)」と「Lady Lenox:不屈(fortitude)」という名前が付けられ南を守るライオンは忍耐、そして北を守るライオンは不屈だった。この結果を見た途端、急に3年前のニューヨークでケィと出会った日々の思い出が蘇ってきた。結局、今回のケィの失踪はあのニューヨークの不思議な経験からずっと続いていて、それらの不思議な出来事は何も終わってはいなかったんだ。いや、忘れていたのは自分だけだったのかも知れない……ケィの意志は全てを思い出させようとしている様に思えた。
霧が晴れた。時刻は5時10分、急いで部屋に帰り、全ての荷物と手荷物バッグもバックパックに放り込み。寝ているアミが起きないように頬にそっと別れのキスをした。そして「グッバイ アミ」心の中で言い、アミが起きていない事を確認してドアをそっと閉め部屋を出た。そしてフロントへ行きチェックアウトを済ませて、エントランスに止まっているタクシーに飛び乗ると、その文明の象徴のようなホテルに別れを告げた。
タクシーはまだ明けぬ夜の闇の中をスタンフォードロードを西北西に向けて走っていった。そして、オーチャード・ロードに入りさらに西北西に進みドービー・ゴートを越え、サマー・セットを過ぎ、オーチャード・ロードの終点までくると細い路地を左へ折れた。そしてその細い路地を暫く行った所にシンガポール観光局本部の大きな白いビルが建っていた。タクシーを降りそのビルの方へゆっくりと歩み寄った。時刻は午前5時58分、指定の時間にはなんとか間に合った。最後の推測が間違っていない事を祈って建物の前に建って?いる白いライオンに近付いた。
するとその像の向こうに僅かに影が動くのが見えた。暗くてよく見えないが確かに誰か居る。それはケィに違い無い、がまんできずに「ケィ」と呼んで走り寄った。でも、そこに居たのはケィではなく、淡い緑色のアンサンブルを着た細身で髪の短い美しい女だ。特徴はアミが説明してくれた通りだ。この女がアミに指示を出した女に違いない。さらに近付いても。じっと立ったままこちらを見ている。やがて向き合う所まで近づくと、やっとに口を開いた。
「ここまで来くれたのね、きっとケィも喜ぶと思うわ」
「ケィを知っているのか、今、何処に居るんだ?ケィに会わせてくれ」
「待って、慌てないで、全てはケィが望んでやっている事なの、ケィの居るところは言えないわ、それに、もし今それを知ったら二度とケィに会えなくなるわ、わかって。これはケィが望んでいる事なのよ」
その女性は同じ事繰り返した。
「何故だ、なんでこんな事をしなくちゃいけないんだ」
「今は詳しく説明する事はできないの、いい、この中にある指示に従って、これがケィの意思よ」
彼女は雪山の旅館にあった物と同じ白い厚い封筒を差し出した。やれやれ、ばかげて芝居じみた探偵ごっこがいつまで続くのだろう。この状況だとまだまだ終わりを告げる事はなさそうだった。
「君は一体誰なんだ、ケィとどういう関係があるんだ」
「私?私の名前はツェン・メイリン、ケィの家族とは知り合いよ。もうご両親はお亡くなりになっていないけど。ケィは古い友達だわ、お願いそれ以の事は聞かないで、今はその封筒にある指示に従って。それがケィの意思なのよ」
メイリンはもう一度そう繰り返した。もう、いいかげんうんざりだ。でも、ケィを探しだすためには、その封筒の指示に従うしか無いという事だけはわかっていた。メイリンが差し出す厚手の封筒を受け取り、中を見ると、シンガポールからバンコック行き国際便の航空券とバンコックからチェンマイへ行く国内線の航空券、そして米ドルでいくらかの現金が綴られていた。
「ケィは、貴方がシンガポールへ来て、こうして私に会う事はこれから起こる事へのイニシエーションだって言っていたわ。この場所で色々な事を思い出して、全てをイニシエートして次のステージへ進むの、それが貴方の使命なの」
「使命・・?使命っていったい何だ。いったい何の目的でこんな事をしなければいけないんだ?」
「それはこれから分かるわ、あなた自身で見つけなければいけない事なの、お願いわかって」
そういうとメイリンは直ぐに横をすれ違うように前に向かって歩き出した。すれ違うと、甘い香水の香りが鼻をくすぐる。するとライトを付けた黒塗りの車がゆっくりとしたスピードでメイリンに近づき、すぐ横に止まり、ドアが開いた。メイリンが緑色のスカートの裾を押さえて優雅に、その車へ静かに乗り込むと、ドアがゆっくりと閉められた。そしてその車はまだ明けぬシンガポールの街へ消えていった。そして1台のRVがゆっくりとその車を追うように、発進するのも見えた。今思えば「メイリン」には何処か見覚えがあったが、それが何処であったのかはっきりと思い出せなかった。ケィの友達ならニューヨークか、マンションの近くにある中華街かのどちらかだろう。いずれにしろ今はもう何も考えられない。呼び止めて聞けばよかったが、今となってはそれも遅すぎた。
一体、何が起こっているのだろうか、イニシエーションとは一体何の事なのだろうか。そして「使命」とは、それにケィや自分が何故関わっているのか全てが謎のままだ。手の中には航空券の入った1通の封筒があった。今は手の中に残されたそのリンクを辿るしか道はなかった。そしてその細いリンクを失う訳にはいかない。
まだ暗いオーチャード・ロードをオーチャード・パレードまで歩き、タクシーを拾うとチャンギ国際空港まで、と行き先を告げてリヤシートの背もたれに倒れこむ、うっすらと明るくなり始めた高速道路をタクシーは日の出に向って走っていった。
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